他地区では襷(たすき)に紋を入れているところもあり、参拾人組(他地区では青年団に相当)より襷に梅鉢紋を入れても良いかと言う問いかけがありました。と云うのも何故か戎福中講の飛檐垂木には梅鉢紋が彫られていたためです。
 その後の調べで解ったのですが、以前の大改修時にお願いした大下工務店の方針で、特に指定が無い場合、飛檐垂木には岸和田天神宮の御神紋である梅鉢紋が入る様です。本来は、茅渟神社の御神紋である左三つ巴を使用するのが良いのでしょうが、茅渟神社のお膝元にある宮元講の紋の印象を受けるのと茅渟神社は菅原道真公もお奉りしているので梅鉢紋も関係無くはないのですが、戎福中講の紋に相応しいかと考えるとそうは思えない。なら、戎福中講と最も関係が深かったと思われる恵比須社(山之井神社)の御神紋を使おう。恵比須社の御神紋にはどう云う紋が使われていたのか今では解らない。それならオリジナルの紋を作ろうと云う事になり、戎福中講参拾人組で考え出された紋が下の紋です。中央に茅渟神社の御神紋である左三つ巴を、周りは戎社の御神紋である蔓柏紋をあしらった素晴らしいオリジナルの紋が出来上がりました。

今回の「平成の大改修」にあたり、戎福中講は独自のやぐら紋を作成しました。
このやぐら紋作成の経緯についてご説明させて頂きたいと思います。

経緯

櫓紋作成に関して

<戎福中講のやぐら>
戎福中講のやぐらは、元治元年以前に講戎と若戎が合併して出来たやぐらで、当時やぐら部屋の前に
は山之井神社(恵比須社)があって、祭神は神倭磐余昆古命(神武天皇)と蛭子命(恵比須神)で
あった。恵比須神を奉っている事から、山之井神社は恵比須社とも呼ばれ、講戎、若戎の名もそこから
来たのであろう。現在、山之井神社に関しての資料は殆ど残っていなく、明治42年に茅渟神社に合祀
されてから、神社跡には石碑が残されているのみである。

<恵比須紋>
恵比須神を奉っている神社で多く使われている紋は「柏紋」であり、、恵比須神の総本社である西宮戎
でも「柏紋」が使われている。恵比須神社の御神紋とされている紋は「蔓柏紋」であり、「蔓柏紋」は「恵
比須紋」とも呼ばれている。

<柏紋>
柏木に神が宿ると云う故事から神紋とされている。また、柏葉は神供の食膳を整えるものとされ、
神聖視されていた。福の神としての恵比須信仰が広まり、恵比須神を祭神とする神社で多く使わ
れている。

戎福中講やぐら紋

今回やぐらを大修理するにあたり、戎福中講やぐら紋を決める事について、上記の事から戎福中講の
やぐらは山之井神社(恵比須社)と何らかの形で関係していると思われる。戎福中講の名前もそうだが、
やぐらには七福神の彫り物があり、正面の御簾上には恵比須様の彫り物がある。これらの事から「恵比須
紋」である「蔓柏紋」を使い、中央には祭礼時に宮入する茅渟神社の御神紋「左三つ巴」を使用した。
この紋は、戎福中講オリジナルの紋である。

平成19年1月27日(土) 戎福中講総会において承認

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