今は茅渟神社に合祀されて、神社の址しか残されていませんが、戎福中講と最も関係が深いと思われる恵比須社について書きたいと思います。

合祀社 山之井神社(恵比須社)
祭神   神倭磐余昆古命(神武天皇)
      蛭子命(恵比須神)

社名については、貞享・元禄頃の記録には恵比須社、夷社となっているが、明治以降は山之井神社と改名している。山之井神社の旧地は、旧樽井町役場の地(樽井小学校正門より右手)で、明治41年の神社合祀の折、茅渟神社に合祀したものである。

○恵比須社の遷宮について
 恵比須社の元の社地は恵比須山(夷山ともいう)であった。恵比須山とは現在の泉南病院跡地即ち国市場で、この地に戎さんを祀った小社があった。
この頃樽井浦の漁師達が不漁のため大変困ったが、それは戎さんを祀る方角が悪いからだということになり、寛永12年に神主新三郎が旧樽井町役場の地に歓請し、恵比須社として祀ったものである。当時国市場の地は恵比須山または夷山といわれ、金熊権現社の末社であった。この地に戎社のあったこと及びこの戎社を旧樽井町役場の地に遷したことについて、元禄2年に樽井村に住んでいた最年長者、76歳から86歳までの5名の者に聞き出した記憶であって、遷宮当時の古老達のの年齢を調べると、久左衛門はこの時86歳であるから57年前の官営12年の時は29歳、最も若い76歳の新太夫で19歳になっているから、この年頃であると夷山に戎社のあったこと、これを旧樽井町役場の地に遷したことは実際に見ているのであるから、間違いのない確かなものである。国市場にあった戎社は、惣社金熊権現社の末社として、信達荘13ヶ村民の戎社であったことは確かである。
尚、一考を要する事は、信達荘村民の戎社をいかなる理由があるにせよ、樽井村漁師の考え1つで他に遷すことが出来るかどうかということ、今一つは樽井村と金熊権現社との関係についてである。金熊権現社と樽井村は往古から深い関係をもつもので、現信達神社の社伝にも書いているように、金熊権現社は元樽井に祀っていたもので、信達荘が設けられると共に、荘の惣社として樽井から五十町山手の森厳な金熊寺国見山の山腹に遷したものであろう。その折、樽井村にあった恵比須社を国市場(恵比須山)に遷し、荘の恵比須社としたものであろう。この様な関係から戎社に対する樽井の支配権は、他村に比べて相当強い力を持っていたもので、樽井の漁師の引き遷しの意見に対しては、他の村民も強く反対することが出来なかったためであろう。

参考:「樽井町誌」

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