漢楚軍談とは

「漢楚軍談」(かんそぐんだん)というよりも、「項羽と劉邦」(こううとりゅうほう)と云った方が馴染みがあるかも知れません!!
漫画でも、横山光輝氏の「項羽と劉邦」や本宮ひろ志の「赤龍王」など、見られた方もいらっしゃると思います。
簡単に云えば、始皇帝の死後、各地で続々と反乱が起こった。その中に項羽と劉邦という卓越した英雄がいた。楚の国の名将の子孫で、亡楚の国王、王孫を擁立して蜂起した項羽。沛県(江蘇省)の官史の出身で、好色な無頼漠だが見識が高く、農民の苦しさを理解し人々の心をつかんでいた劉邦。
この項羽と劉邦の戦いの物語を「漢楚軍談」と云います。
中国の戦記物と云えば、「三国志」が有名ですが、その「三国志」に負けず劣らず人気の高いのが「漢楚軍談」です。「漢楚軍談」は、「三国志」よりも400年も前の史実に基づいた物語です。

戎福中講の幕板や小脇板、脇障子の彫り物の図柄は、「三国志」と思われがちなのですが、「漢楚軍談」で統一されています。この頁では戎福中講に彫られている豪傑達の物語を紹介して行きたいと思います。
大屋根(左右)小脇板:「鴻門の會 剣の舞の図」
項羽に招待された劉邦は、張良と部下を従えて鴻門の会に出かけて行った。項羽は、笵増の入れ智恵で劉
邦をすぐに殺すか、宴会の席に隠れた兵に殺すか、酒に酔わせて殺すかの3つに決めていた。この場面は
項荘(右)が剣の舞を踊り隙を見て劉邦の命を狙うが、項伯(左)がそれをさまたげているところである。しか
しこの場は、張良の機転によって一命を取り留めるのである。
大屋根幕板(右):「月夜に駆ける 韓信」  
漢王(劉邦)が韓信を重任に取り立てるための策は、この地を去るのが一計であるとして、韓信(右)は夜東
門から馬で走り去った。この知らせを受けた簫何は、従者を従え寝ることも惜しんで韓信を追いかけた。川の
ほとりまで来ると、夏侯嬰(かこうえい)が韓信を伴って現れた。そして2人の国を思う献身的な努力によって
、漢王に韓信を大将軍にすることを承知させた。
大屋根幕板(左):「蒼海公の勇姿」
紀元前3世紀末、秦の始皇帝は中国史上初の統一国を創出し戦国時代に終止符をうった。だが始皇帝の悪
政は庶民を苦しめ、その恐怖政治は人々を怯えさせていた。この悪政を打開する為、始皇帝暗殺を計画した
のが張良である。張良は韓の国に仕えて宰相となったが始皇帝に国を滅ぼされて、常に復習を願い、天下に
壮士を求めた。この始皇帝暗殺計画に賛同したのが千斤の鉄槌を自由に操る蒼海公(そうかいこう)である。
しかし、この暗殺計画は失敗に終わり、蒼海公は処刑された。
大屋根幕板(背面):「張良、劍を賣りて韓信を説く」
張良(右)は鴻門の会から、無事劉邦の一団を漢中に送り届けると、次に項羽に仕える軍師韓信(左)を劉邦
の下に取り込もうと考える。そのためにはまず韓信が興味を持つ刀を彼に売って接近する事を考えた。そして
二人が出会ってから「伯楽に逢う時は千里の麒麟となる」といって韓信を誉めあげて仲間にすることに成功す
る。
大屋根(左右)脇障子:「張良、下邳に黄石公に遭う」

 漢の高祖に仕える張良(右)は夢の中で老翁と出会う。江蘇省の下邳の土橋で兵法を伝授してもらう約束を
し、夢の中で約束した五日後に橋のほとりに行く。しかし、老翁は約束の時間に遅れた事を咎め、また五日後
に来いと言い去っていく。
 五日後、張良は正装をし早暁に行くと威儀を正した老翁が馬に乗って現れた。そして自らを黄石公(左)と名
乗り、履いていた沓を川へ蹴落とした。張良は急いで川に飛び込んだが、大蛇(実は張良の勇気を試す龍
神)
が現れ威嚇し沓を取られる。張良はすばやく剣を抜き立ち向かい大蛇から沓を奪い返した。黄石公は張
良の働きを認め、兵法の奥義秘伝「三巻の太公望の兵書(六韜・三略)」を授けるのだった

小屋根車板:「劉邦 芒蕩山に白蛇を斬る」
劉邦が沛県の泗水亭長を担当した頃、始皇帝の陵墓を築く為に驪山に民夫を連れて行く命令を受けた。そ
の途中、秦の横暴を怖れて逃げ出す者が絶えず、驪山に着いたら一人もいなくなってしまうと劉邦は考えた
。劉邦は芒蕩山あたりに来て、心ゆくまで酒を飲んで皆を解散した。その中で10名程の逞しい青年達が劉邦
を慕って付いて来た。そして芒蕩山に着いたところで、一行の前を一匹の大蛇が横たわって通れなくなって
しまった。皆が回り道をしようとしていたところ、劉邦は怒り大蛇を剣で切って前に進んだ。それから、暫く歩
いた後、劉邦は酒に酔って横になっていた。やがて、後ろから歩いて来る人々がいて、その中に一人の老
婦人が泣きながら「私の息子は白帝の子で蛇に化けて路上で横になっていたが、赤帝の子に殺された。」
と訴えた。この話を聞いた劉邦は、自分が将来大事業を成功させ、天の助けがあると確信した。
小屋根幕板(右):「項羽 重さ五千斤の鼎を持ち上げる」
項羽は叔父の項梁と会稽に隠れていたが、会稽の太守の殷通(いんとう)を騙し討ちにしてその城を奪った。
そのあと会稽山のふもとにいる、于英(うえい)、桓楚(かんそ)の2人の盗賊の大将を味方に引き入れるべく
説得にあたった。しかし彼等は項羽に、山の下にある禹王の廟に大きな石の鼎(かなえ)を倒し、再び起こし
たなら協力すると述べた。そこで24才の項羽は、鼎を転がすどころかそれを持ち上げてみせ、仲間にするこ
とに成功した。
小屋根幕板(左):「樊噲、鐵門を破る」
鴻門の會では、劉邦を殺そうとする項荘と、劉邦・張良を助けようとする項伯の剣の舞のぶつかりあいが繰り
返された。次第に項伯に疲れが見え、このままでは防ぎきれないと見た張良は厠に立つ振りをして、陣の外
で待機していた樊噲に劉邦の危機を知らせた。范増の計で将兵は陣の外で待たされていたが、劉邦の危機
を救おうと樊噲は陣門を破り、門兵を押しのけ酒宴の席へ侵入した。突然の侵入者樊噲によって剣の舞は終
わり、無礼であると怒った項羽は樊噲に問いただしたところ、共の家来には何の振る舞いもなく、空腹が我慢
ならず陳情に来たと返答した。項羽も納得し、樊噲に酒と肉を与えた。その後、項羽と樊噲は酒の飲み比べ
をしたが、項羽が酔いつぶれた隙に劉邦は自分の陣に引き返し難を逃れた。
漢楚軍談
inserted by FC2 system