初代(彫又)枡屋又兵衛
安永七年(1778)に京都山城国西岡に生まれ、文久二年(1862)十月二十五日歿す。行年八十五才。法名顕融浄通信士。
出自は、藤原姓で寛政年間中頃から天保時代(1830)にかけて活躍。
堺の永福寺町東側(現在の市之町辺)に住み、地車・ふとん太鼓の彫物を手懸け、のち出地西岡を姓とする。また、河内屋とも名乗り、浄瑠璃の三代目竹本春太夫門下となり、四代目春太夫を襲名する。四代目春太夫の墓は、堺市林昌寺(柳之町東三丁三四)にある。
<彫又>の墓は、阪堺線「御陵前」の菩提寺観月院に在ったが、戦災により消失し、今は同市鋒ヶ峰墓地に眠る。末孫等(大和谷姉妹)からの聞き取りでは、西岡一門は浄瑠璃が得意で、見台に謡本が沢山あったと云う。
初代<彫又>事枡屋又兵衛=四代目竹本春太夫は、妻方の屋号と推察される河内屋?をも名乗っており、当時は此の様に二つの屋号を使い分けた人物がかなり見受けられる。
二代目(彫又)西岡又兵衛
生没年未詳・・・・・・・・初代彫又、枡屋又兵衛の次男で、本名嘉兵衛。文政(1818)から明治初期にかけて活躍した名匠で、堺彫所(彫又)の看板を掲げ、泉州堺に”(彫又)”在りと知らしめたのは此の二代目だと云われている。文化・文政から天保にかけて建造された堺近辺の寺社彫刻は、彼の手に懸かるものが多いと聞く。
永福寺町から大工町に移り住み、先代の生地・西岡を苗字とし、数多くの泉州堺彫の名匠を送り出し、男子六人の子宝に恵まれ、五人を彫師・一人を大工棟梁に育て挙げたと云う。
なお、此の二代目は泉州堺の地車大工(木村)一門とコンビを組み、数多くの仕入地車を手掛けている。住吉(大佐)もしかり。二代目のノミ跡は<花岡・高松・相野・小松>等と相通ずる部分あり。
※河内長野市小塩地車
此の地車は、新調時の形態を残す数少ない堺型地車で、彫物・彫金金具等にも見るべき物があり、名地車。新調時には、現在の堺旧市内で高名を馳せた白眉であったろう。
作品
天保時代前後
現河内長野市小塩地車(元堺市新在家地車)
〃 現奈良県広陵町馬見大垣内地車
幕末 現柏原市本郷地車
〃 現奈良県香芝市下田地車
〃
現河内長野市上田地車(元堺市甲斐之町地車)
〃 岡山県津山市玉獅子臺(玉琳)
〃 大東市御領地車
〃 現寝屋川市国守神社地車
幕末〜明治初期 現堺市鶯谷地車(元堺市下田町先代地車)
〃 現西宮市西宮戎地車(元泉大津市千原先代地車)
〃
元尼崎市本町三丁目地車(堺市深井中町先代地車)
〃 奈良県橿原市小網町地車
〃
現柏原市北町(青谷)地車
〃
現柏原市南町(青谷)地車
明治元年
現大阪市東住吉区桑津地車(元泉大津市下之町先代地車)
前記した他では、奈良県広陵町馬見大垣内地車・同平尾地車・南河内郡河南町中村地車にも少しではあるが、手が入っている様に見受ける。(すべて、同一門の作で、大垣内地車は父と合作。他は三男坊弥三郎との合作。)
寺社等もかなり手懸けているはずであるが、未だ発見出来ず。
町名は忘れたが、堺旧市内にある月蔵寺(日蓮宗)の山門蟇股(司馬温公の瓶割)が、二代目(彫又)作と思えてならないが?
参考資料:『大坂・浪速木彫史』